アダルトチルドレン
職場のモラハラ トラウマ
職場 家族 友人
人間関係のストレスで
生きづらさを感じている方へ
不安 イライラ
ネガティブな気持ちを
吐き出すことで
重く沈んでいた心が
驚くほど軽くなり
あなたの中の秘められた能力が
最大限に 発揮できるようになる
月の明かりのように
そっと未来への希望の光を照らす
スーパームーンセラピー
皆様こんにちは!
心理カウンセラー スーパームーンKIMIHIKOです。
私は1963年7月 静岡県熱海市生まれ熱海市育ちです。
3人兄弟の長男ですので、根っからの長男気質です。
幼少期は、あなたはお兄さんなのだから我慢しなさい。
妹弟に譲りなさい。下の子の面倒を見なさい。
弱い子の力になってあげなさいと育てられました。
小学生になると、母親が託児所の様に近所の赤ちゃんを預かる様になり、
その赤ちゃんをおぶって遊んだり、おしめを替えたりしていました。
この頃から、現在の面倒見の良さが芽生え始めていたと
振り返るとわかります。
これからは、
善循環の絶頂も悪循環のどん底も
経験した私ならではの視点及び観点で、悪循環のどん底で苦しんでいる方々、
悪循環から抜け出せずにどうすればいいのかわかない方々、
誰にも相談出来ずに一人で抱え込み悩んでいたり困っている方々、
そんな、この私を必要として下さる皆様のお役立ち (傾聴することで受容し共感する)が
出来るカウンセラーが天職と思いこの道を志しました。
皆様の幸せのお手伝いをいたします。
・幼少期、3人兄弟の長男として生まれた為、
あなたはお兄さんなのだから我慢しなさい。
妹弟に譲りなさい。下の子の面倒を見なさい。
弱い子の力になってあげなさいと育てられました。
本来ずぼらなB型人間を何でも几帳面にしなさいと
あなたはお兄さんなのだから我慢しなさい。
妹弟に譲りなさい。下の子の面倒を見なさい。
弱い子の力になってあげなさいと育てられました。
本来ずぼらなB型人間を何でも几帳面にしなさいと
矯正され親に甘えさせてもらった記憶はありません。
・小学生の頃は母親が昼間託児所の様に、
よその赤ちゃんを預かっていたのでおんぶ紐でおんぶして
赤ちゃんの面倒見ながら遊んでいました。
布おむつのおしめを替えたりもしていました。
この頃から現在の面倒見の良さが
芽生え始めていたのだと振り返るとわかります。
・中学入学後野球部に入部し、先輩からしごかれる毎日、
生意気だと先輩から絞められる(殴られる)事が多くなりました。
しかし喧嘩は負けなしだったので、気の弱い友人が
ツッパリにやられると、私のところに助けを求めに来るので、
代わりに話をして助けてあげていました。
・高校は野球の強豪校だったため同学年で100人入部しました。
その中で監督から責任者と指名された為、
何かにつけて先輩から責任を擦り付けられ説教という名の
イジメ(殴る蹴るの暴行)を受けました。
意味のない暴力で100人いた部員(同級生)は
最終的に11人になってしまいました。
2年になっても説教は毎日の様に続き、
その間ずっと標的にされていました。
その当時、同級生からお兄ちゃんというあだ名で呼ばれ、
「お兄ちゃんじゃなかったら、とっくに自殺している。」と
個人的な説教に耐えた事を凄いと皆から褒められました。
現在の強靭なメンタルはここで養われました。
・30歳で結婚、子供が出来たのをキッカケに真面目に働くも、
同期から出世争いに遅れを取っていることに気づき、
本を読み漁り勉強するようになりました。
仕事に集中し朝から夜中まで会社におり、
徐々に出世し係長時代に事業所一番の成績をいただき
39歳で課長に昇進しました。
マスオさんだった為、嫁姑ではなく
実の親子喧嘩の仲裁が嫌で、
家に帰りたくなく残業に没頭していました。
私は長男でしたが、母親がくも膜下出血で倒れ後遺症があり、
祖母も脳梗塞で寝たきりになってしまった為、
私の嫁に面倒を見させるより妹に見てもらったほうが良いと、
跡継ぎを妹にするよう祖父、祖母、母親で話し合い、
私はどこでも好きなところに行けばよいと言われたので、
嫁のところにマスオさんで入りましたが、
嫁と嫁の母親もかなりキツイ性格で親子喧嘩が絶えず、
間に挟まれ嫌な思いをしました。
その時は家に居場所がないと感じ家に帰りたくない病でした。
プライベートでは息子が少年野球を始めたのをキッカケに
コーチに就任しましたが、当時の監督がかなりの独裁者で
理不尽な暴言が酷く揉め事が絶えませんでした。
私が仲裁に入り穏便に済ませていましたが、
最終的に私に喧嘩を仕掛けて暴言を吐いてきたので、
子供と一緒に辞めると言うと、団の重鎮、団長、理事長から
引き止められ監督を更迭するから○○さんが監督になってくれ
というお話をいただき38歳で監督に就任しました。
そこから子供達には私の様な中途半端な野球人生を
送って欲しくないと教育に特化した指導に努め、
周囲に感謝することや礼儀挨拶はもちろん、
目配り気配り心配り、何事も取り組む姿勢が大切であること、
負けたら終わりじゃなくて辞めたら終わり、
継続は力なりが信条となり、子供達には困った時には
小学校のグランドに帰って来なさい。
監督はずっと君たちの味方だからと教え、
節目にはOBがグランドに挨拶に帰って来てくれる様になりました。
・40歳時、課長昇格後沼津から福井に転勤、
最初に組織職を任された部署は、人も風土も考え方も
全く違う土地で孤軍奮闘しました。
そこで人材育成の重要さに気づき、係長の指導教育は元より、
班長以下20代30代の人材育成に特化した教育システムを構築し、
会社のデータベース(○○組)を利用して実施いたしました。
私が読んだ本の一部を紹介して皆の考え方を聴いたり、
一緒に考え道標を与えたり、最初は小規模の部下とだけ
やっていましたが、段々と広がり違う事業所の方々も参加し、
色々教えあったり教わったり、相互啓発の場として運営していました。
その後、私の部署で育った部下から、何人もの組織職が誕生しました。
40代が一番本を読みインプットし、部下への教育等で
アウトプット出来ていたと思います。
40代後半で上しか見ない上司と下を庇う私との間に
軋轢が生まれ、最終的にその上司と衝突し
3人の子供たちの教育費など金銭的な事情もあり
早期退職に踏み切りました。
・50歳で転職し中小企業の注射針メーカーで
課長職を経験しました。課長職で募集があることに
違和感はありましたが気にせず入社すると、
前任者は5年で3人辞めたとのこと、
皆2年と持たなかったそうです。
社長自身が独裁者で少しでも気に入らないと暴言の嵐で、
それに激怒し辞めるか、鬱病を発症し辞めてしまうか
という所で、私に対しても暴言の嵐でしたが、
我慢に我慢を重ね4年半頑張りました。
しかし最後は原因不明の不良発生の全責任を
押し付けられ社長と喧嘩別れになるところ
会長の配慮で会社都合となり退職しました。
その後、再転職でアパートマンション土地活用の会社で
飛び込み営業を経験しました。
インターホンを鳴らしただけで激怒され
追い返される様なお客様にも、何度となくチャレンジし
関係を良好に出来ましたが、社内営業に悩まされました。
年下の上司に妬まれたりやっかみから嫌がらせされたり
暴言の数々で、精神的にはまだ絶えられると
思っていましたが、体中に帯状疱疹が出来た為、
こんなブラック企業で我慢する必要なしと判断し
2年弱で退職する事にしました。
平成令和にまだこの様な昭和スタイルのブラック企業が
蔓延っていることに愕然としました。
・それからは半導体の洗浄機メーカーに
装置及び部品を出荷する製造会社で、
検査、梱包、出荷部署のリーダーとして4年半がんばりました。
検査といっても重量物の移動運搬を行なったり、
工場内を行ったり来たりの動きが多い上に
毎日9時まで残業の土曜日出勤な為、
足腰を痛め夜中に足が攣ったり慢性腰痛に悩まされたり
身体的にきつくなってきました。
還暦を迎え体力の衰えを実感してきた今、
何か自分で起業出来ないか探していたところでした。
急上昇したり急降下したりと、浮き沈みの激しい半生でした。
これからは、善循環の絶頂も悪循環のどん底も
経験した私ならではの視点及び観点で、悪循環のどん底で苦しんでいる方々、悪循環から抜け出せずにどうすればいいのかわかない方々、誰にも相談出来ずに一人で抱え込み悩んでいたり困っている方々、そんな、この私を必要として下さる皆様のお役立ち (傾聴することで受容し共感する)が 出来るカウンセラーが天職だと思いこの道を志しました。
アダルトチルドレン 職場のモラハラ トラウマ
職場 家族 友人 人間関係のストレスで生きづらさを感じている方へ
不安 イライラ ネガティブな気持ちを 吐き出すことで
重く沈んでいた心が驚くほど軽くなり
あなたの中の秘められた能力が最大限に 発揮できるようになる
月の明かりのようにそっと未来への希望の光を照らす
スーパームーンセラピー